主題シュダイ科目カモク
都市トシデザイン
2-2中世チュウセイ都市の都市デザイン(日本ニホン中世チュウセイ
出典シュッテン 建築大ケンチクダイ辞典ジテン ダイハン」、ショウ国社クニシャ、1993
日本ニホンj建築ケンチク図集ズシュウ 新訂シンテイバン」、日本建築学会編ニホンケンチクガッカイヘン彰国社ショウコクシャ、1981
広辞苑コウジエン 第四版ダイヨンハン」、新村ニイムライズルイヘン岩波書店イワナミショテン、1993
六波羅ロクハラ ろくはら
(六波羅ロクハラミツテラ所在地ショザイチだからいう。また、六波羅ロクハラ探題タンダイリャク
京都キョウト鴨川カモガワヒガシ五条ゴジョウ七条ナナジョウアイダショウ平家ヘイケ一門イチモン居館キョカン六波羅ロクハラ殿デンがあったところ。承久ジョウキュウヘンキタジョウ南北ナンボク六波羅ロクハラ探題タンダイモウけたところ。
六波羅ロクハラ探題タンダイ ろくはらたんだい
鎌倉カマクラ幕府バクフ職名ショクメイナイ守護シュゴオヨ近畿キンキ三河ミカワ以西イセイ政務セイム総括ソウカツするため、京都キョウト南北ナンボクリョウ六波羅ロクハラ駐在チュウザイした。北条氏ホウジョウシ一門イチモンニンぜられ、大事ダイジ鎌倉カマクラ節度セツドけ、小事ショウジ専断センダン処置ショチ六波羅殿ロクハラドノ
ヨンギョウハチモン しぎょうはちもん
ジョウボウセイモトづくマチ区内クナイ宅地タクチ街区ガイクナイ南北ナンボクショウトオし、東西トウザイ方向ホウコウに4分割ブンカツし、それらをさらに南北ナンボク方向ホウコウに8トウブンするものである。カク敷地シキチ東西トウザイからアプローチをとることが前提ゼンテイとなっている。
マチ ボウ、まち
@古代コダイ中世チュウセイにおいて、イチカクナイ建物タテモノまたはそのなかの建物タテモノグンソウボウハルボウベツボウなどとして使ツカ
Aヒロさや輪郭リンカクにかかわらず市街地シガイチ総称ソウショウムラタイするシュとして中世チュウセイ以後イゴ使ツカわれる。
メン @建築ケンチクにおいて四方シホウ方向ホウコウ正面ショウメン側面ソクメン背面ハイメンなど。
A古代コダイ中世チュウセイ建築ケンチクにおいてハハ(もや)にけてあるヒサシ方向ホウコウタトえば、正面ショウメンハシラカンスウが3で、前後ゼンゴホウヒサシいているならば「3カンメン」という。
ツジ つじこ
平安ヘイアンキョウ中世チュウセイのなかで、重要ジュウヨウ都市的トシテキ減少ゲンショウのひとつ。街区ガイクナイトオされたショウのことをし、シュとして街区ガイク内部ナイブクウカン再開発サイカイハツするためにモウけられたもの。タカミツジュウ進行シンコウしていた上京ジョウキョウ数多カズオオくのツジ発生ハッセイした。
チマタショ こうしょ
ジョウボウセイによるダイショウ占拠センキョされ、宅地タクチ耕地コウチになった部分ブブンす。平安ヘイアンキョウミナミヒガシテラ周辺シュウヘンられるチマタショオオくは耕地化コウチカしたもので、農村ノウソン現象ゲンショウとみることができる。都市部トシブではチマタショマチ前面ゼンメン道路ドウロ占有センユウ宅地タクチしていったものと推定スイテイされる。
殿デンツク 平安ヘイアン時代ジダイ完成カンセイされた天皇テンノウ貴族キゾク住宅ジュウタク形式ケイシキ。ただし、地位チイによって規模キボ形式ケイシキにする。中国チュウゴクヨンイン住宅ジュウタクなどとコトなり、周囲シュウイチクヘイメグらし、その内部ナイブ殿デンタイ中門チュウモン廊などの殿舎群が南庭を取り囲むように配置され、二重の境界装置(築地塀・中門廊)を持つことが特徴的であった。最も完備したものは三位以上の貴族のもので、それを主とすると以下の通りである。敷地は1町(121×121m)で周囲に築地塀をめぐらし、東西または西面に正面として四脚門を開き、住屋は正殿としての寝殿とその左方および後方の東の対(たい)、西の対、東北の対などからなり、対屋から中門廊を突き出す。10世紀に入ると、「池亭記」に記されるように多くの貴族住宅は荒廃し、築地塀が崩れそこに庶民の小屋が建つような現象もショウじた。
築地ツキジヘイ ついじべい
粘土ネンドげてツクったヘイキズドロ(ひじ)のリャクという。ハシライタえ、そのナカドロ粘土ネンドむ。古代律制下コダイリツセイシタにおいては、屋敷ヤシキ築地ツキジヘイをめぐらすことができたのは五代以上の者ゴダイイジョウノモノカギられていた。
タイ たいのや
寝殿シンデンゾウ寝殿シンデン左右サユウウシろにツクられている独立ドクリツジュウ寝殿シンデンタイ、またはタイ相互ソウゴワタ殿デン連結レンケツされている。構造的コウゾウテキには寝殿シンデンオナじく母屋オモヤヒサシサラヒロヒサシなどからり、三位サンイ以上イジョウではヒノキカワき、母屋オモヤつくり。寝殿シンデンからの方向ホウコウによってヒガシツイ西ニシツイキタツイ西ニシキタツイなどとショウする。
ナカモンロウ ちゅうもんろう
殿デンツクりの東西トウザイタイから、タイ場合バアイ寝殿シンデンから直接チョクセツに、あるいは2トウロウカイしてミナミ(まらにヒガシまたは西ニシ)にしたロウリョウケタ任意ニンイで、モンメンしたカワハシラカベとし、ミナミニワメンしたハシラハナちとする。このヘキには入口イリグチとしてツマヒラき、トクサン以上イジョウおよび親王シンノウなどの邸宅テイタクではカベレンマドヒラくことがユルされていた。
町屋マチヤ マチイエ まちや
@平安ヘイアン鎌倉カマクラ時代ジダイにおいては平安ヘイアンキョウ東西トウザイ(官設カンセツ市場イチバ)以外イガイホカトク東西トウザイトオりのマチスジにおいてナイしてモノっている建物タテモノ総称ソウショウ
A室町ムロマチ時代ジダイ以後イゴにおいてはマチにあるショウ職人ショクニン総称ソウショウ。その平面ヘイメン形式ケイシキ農家ノウカからブンシュツされたもので、トオ土間ドマ形式ケイシキ普通フツウマエ土間ドマ形式ケイシキである。
市場イチバ集落シュウラク 物質ブッシツ交換コウカンシチ中心チュウシン発達ハッタツした集落シュウラク不定期フテイキイチ定期テイキ常設ジョウセツヒラ頻度ヒンドタカくなるにつれ、ツネヒサシ設備セツビ店舗テンポモウけられ、集落シュウラクカクとなった。クニでも中世チュウセイスエイタり、交通コウツウ要地ヨウチ、あるいはテラシャ門前モンゼン市場イチバマチ成立セイリツがみられ、また地名チメイにしたレイオオい。形状ケイジョウとしては、マチミチ沿ったセンジョウのものがオオい。
市場イチバマチ market town
シュとして商品ショウヒンきを目的モクテキとして成立セイリツ発達ハッタツした集落シュウラク市場イチバ発達ハッタツは、不定期フテイキイチ定期テイキ常設ジョウセツイチ歴史レキシテキ段階ダンカイんで発達ハッタツしてきたとみなされるが、イチマチ成立セイリツするのは定期テイキイチ成立セイリツ以降イコウである。日本ニホンでは流通リュウツウ経済ケイザイ格段カクダン発展ハッテンげた中世チュウセイマツごろから交通コウツウ要地ヨウチあるいは寺社ジシャモンマエ市場イチバマチ成立セイリツられる。四日市ヨッカイチ五日市イツカイチジュウイチなどは、その定期テイキイチ名残ナゴリ地名チメイにとどめているものである。
環濠カンゴウ かんごう
集落シュウラク住居ジュウキョなどの周囲シュウイメグらされたゴウ集落シュウラクナド防御ボウギョ洪水コウズイ防止ボウシ排水ハイスイ灌漑カンガイ水運スイウン機能キノウっているが、原初ゲンショ形態ケイタイとしては防御ボウギョヨウたすものとカンガえられている。中世チュウセイ後期コウキ荘園ソウエンセイ崩壊ホウカイし、ゴウムラセイ高揚コウヨウした時期ジキオオくの環濠カンゴウ集落シュウラク奈良ナラ盆地ボンチ大阪オオサカ平野ヘイヤ京都キョウト盆地ボンチ佐賀サガ平野ヘイヤテイ湿地シッチなどに形成ケイセイされた。
環濠カンゴウ集落シュウラク 周囲シュウイホリメグらせた集落シュウラク広義コウギにはクニ中世チュウセイ末期マッキ建設ケンセツされた寺内町ジナイチョウキン初期ショキ自由ジユウ都市化トシカした港町ミナトマチサカイ姫路ヒメジ彦根ヒコネなどマチ全体ゼンタイホリカコまれた城下町ジョウカマチ、あるいはベルギーのアントワープなど環濠カンゴウフクむ。
寺内テラウチマチ じないちょう
室町ムロマチ時代ジダイ中期チュウキ以後イゴ浄土ジョウド真宗シンシュウ(一向宗イッコウシュウ)本願寺ホンガンジ宗徒シュウト建設ケンセツした一連イチレン集落シュウラク軍事グンジテキ性格セイカクツヨっている。1471(文明ブンメイ3)ネン北陸ホクリク地方チホウ布教フキョウたっていた蓮如レンニョによってつくられた越前エチゼン吉崎ヨシザキ一番イチバンフルく、近江オウミヤマ山科ヤマシナ本願寺ホンガンジトミリンなど畿内に多く分布する。御坊と呼ばれる寺を中心にして、その周りには農民信者の詰所である家屋が取り巻いている。多くの場合碁盤目状に街路が引かれ、土居、濠が巡らされている。ほぼ完全に近い形で残っている例として 原市の今井がある。本来「寺内」とは浄土真宗では境内という意味である。
土居ドイ つちい
@平安ヘイアン鎌倉カマクラ時代ジダイにおいてドロツチげてツクられたヘイ。「方丈記ホウジョウキ」ではツチクミウエにうちオオいをくとある。
A豪族ゴウゾク屋敷ヤシキ城郭ジョウカクなどの周囲シュウイをめぐらした土手ドテルイ断面ダンメン台形ダイケイウエウマみ、底辺テイヘンきという。→どい
今井イマイマチ 奈良県ナラケン
今井イマイでは天文テンモン真宗シンシュウ道場ドウジョウ建設ケンセツされ、モトカメから天正テンショウにかけて本願寺一ホンガンジイチ家衆イエシュウ今井兵イマイヘイ中心チュウシンに4マチ四方シホウ土地トチマチホドコし、周囲シュウイ土居ドイゴウカコうといったマチヨウガイススめられたとされる。環濠カンゴウ土居ドイカコまれたマチナイにはグリッド・パターンのマチりがホドコされるが、ナガホウケイマチミナミキタハバは20チイさく寺内ジナイマチ共通キョウツウしたマチである。またショウネンテラフクヒガシマチ西ニシマチミナミマチ北町キタマチヨンマチシリ対角線タイカクセンをなして分布ブンプする形態ケイタイ特徴的トクチョウテキである。これは周辺シュウヘン展開テンカイした環濠カンゴウ集落シュウラク区画クカクワリとも類似ルイジしており、西ニシマチ春日カスガ神社ジンジャ存在ソンザイアワせて、先行センコウする環濠カンゴウ集落シュウラクとの関係性カンケイセイ想定ソウテイされる。また、東側ヒガシガワ新町シンマチイママチでは、これらのマチとは街区ガイク街路ガイロ形態ケイタイコトなり、段階的ダンカイテキマチ発展ハッテン推定スイテイされる。