主題シュダイ科目カモク
都市トシデザイン
1-1 古代都市の都市デザイン(古代コダイ日本ニホン
出典シュッテン 建築大ケンチクダイ辞典ジテン ダイハン」、ショウ国社クニシャ、1993
日本ニホン建築ケンチク図集ズシュウ 新訂版シンテイバン」、日本建築学会編ニホンケンチクガッカイヘン彰国社ショウコクシャ、1980
古代コダイ ancient times
歴史レキシ時代ジダイ区分クブンイチ三分サンブンホウち、中世チュウセイ近代キンダイタイする。世界史セカイシテキには原始ゲンシ時代ジダイのあとをうけて、文明ブンメイ階級カイキュウとが成立セイリツしながら、しかも封建ホウケン社会シャカイにはススんでいない段階ダンカイシュとして奴隷制ドレイセイ土台ドダイとする社会シャカイをいう。日本史ニホンシでは一般イッパン奈良ナラ平安ヘイアン時代ジダイし、大和ヤマト時代ジダイ(原始ゲンシ古代コダイ)をフクめてもいう。
古代コダイ都市トシ ancient city
古代コダイ成立セイリツした一般イッパンに、キワめて宗教シュウキョウテキ政治的セイジテキ軍事的グンジテキ性格セイカクツヨく、形態的ケイタイテキにもそれが表現ヒョウゲンされている場合バアイオオい。オオくの場合バアイ巨大キョダイ政治的セイジテキ宗教的シュウキョウテキなモニュメントをフクみ、また自体ジタイがそのようなモニュメントとして建設ケンセツされるレイもあり、チョウ人間的ニンゲンテキなスケールの空間クウカン現出ゲンシュツしていた場合バアイオオい。日本ニホンでは、大化タイカ改新カイシン(645)ナンナミキョウ藤原フジワラキョウ平城京ヘイジョウキョウなどの基盤キバンジョウ整然セイゼン区画クカクされたミヤコジョウ中国チュウゴク影響エイキョウのもとに建設ケンセツされたが、ここにもそのような特性トクセイることができる。空間的クウカンテキには、しばしば人間的ニンゲンテキ尺度シャクドによって自然シゼン形成ケイセイされた中世チュウセイ都市トシ対比タイヒされる。
奴隷ドレイセイ slavery
生産セイサン労働ロウドウ担当タントウシャ奴隷ドレイである社会シャカイ制度セイド古代コダイ社会シャカイには一般的イッパンテキなものとされる。トク古代コダイギリシア・ローマの社会シャカイはその典型テンケイ
ミヤコジョウ (1)中国チュウゴクにおいてはテンまたはショコウ城壁ジョウヘキをめぐらしたトクシュウダイではショコウ子弟シテイキョウダイ領地リョウチにあるシロ
(2)カンガクでは古代コダイ中国チュウゴク形態ケイタイ影響エイキョウけてツクられたグリッド方式ホウシキ官営カンエイ城壁ジョウヘキはない。645ネン大化タイカ改新カイシン以後イゴ151年間にわたり、近畿地方では宮城を中心にした都城形式の首都が、地方には国ごとに国庁を中心に国府が建設された。都城の構成上の特徴は、条(東西の道路)と坊(南北の道路)による直線と直角を用いたグリッドパターンを持つこと。南面して北部中央に中心施設(宮殿または国庁)があること、中心部に南北の中心大路があることなどである。それらは政治的権威の物的象徴と物的秩序の骨組みとして以後の首都造営の計画原となる。ミヤコシロ計画ケイカク原理ゲンリはその日本ニホン都市トシ計画ケイカク(トク城下町ジョウカマチなど)にツヨ影響エイキョウアタえることになる。
ジョウボウ (1)まちの道筋ミチスジ。まちすじ
(2)平城ヘイジョウキョウ平安ヘイアンキョウなどの、ダイショウによってけた基盤キバンモク市街シガイ区画クカク南北ナンボク九条クジョウに、東西トウザイシュスズメダイハサ左右サユウリョウキョウカクヨンボウける。トウ都市トシ計画ケイカク模倣モホウしたもの。
ボウ (1)区画クカクされたまち。市街シガイ
(2)都城トジョウセイイチ区画クカクヨンマチヨンホウショウ
藤原フジワラキョウ 持統・文武・元明3代の首都(694-710)。南大和平野の畝傍、耳成、天香具の三山に囲まれた平地にイトナまれた。中国形式の都城の最初。条坊の制が敷かれたことは確実であるが、その詳細には各説がある。中心となる藤原京跡が1934年以降に発掘された。
平城ヘイジョウキョウ トウ長安チョウアンキョウして奈良ナラ平野ヘイヤ北部ホクブ建設ケンセツされた首都シュト(710-784)。このアイダ740-745ネン恭仁キョウヒトキョウ(くにのみやこ)にセン都していた。広さ東西32町(4.2km)、南北36町(4.7km)。古来の下津道の朱雀大路とし、、条理制の土地のウエに1,800尺の方眼に地割りし、地割線を中心軸として街路をとった。直交する大路により72坊に区画される。この坊は16等分して坪または町と称され、更にこの1/16が宅地班給の基準となった。朱雀大路北端に8町×10町で、東南隅に2町×2町の欠込みをもつ平城京を配する。後に東部北半に外京が、北部西半に北辺が拡張された。京内には官私の寺院が配置され、条坊の区画にしたがって寺地が形成され、伽藍の中軸線も小路の中心あるいは坪の中心に合わせてつくられており、京にとっての重要な記念建造物となっていた。
平安ヘイアンキョウ 794ネン桓武カンム天皇テンノウによって現在ゲンザイ京都キョウトイトナまれた都市トシ。38マチ(5.3km)×32マチ(4.5km)のヒロさを持った条坊制の都市。唐の長安、洛陽をそれぞれ右京、左京に比定する。基本的平面形成は平城京とほぼ同じであるが、平城京では仏寺が都市内へ計画的に造営されたのに対し、平安京では政治的理由でそれがなかったこと、また平城京では1,800尺単位のグリッドシステムで構造が決定されているのに対し、平安京では400尺四方のブロックの集合体として都市全体がとらえられているのが異なる。1180年福原遷都があったことを除き、1868年まで帝都だった。また、平安京における町人地の町割法として「四行八門の法」があった。これは1坊(方40丈)を南北8門、東西4門に割って、32の戸主に分割する方法であった。
平安ヘイアンキョウダイナイウラ グウジョウすなわちダイナイウラは、キョウジョウ中央チュウオウ北部ホクブにあり、東西トウザイマチ(ヤク1.1km)、南北ナンボク10マチ(ヤク1.4km)のを占め、その西に饗宴を催す場所であった豊楽院が並ぶ。内裏は八省院の東西に当たり、天皇の祖霊をまつる中和院がその西にある。このほか武技を演ずる武徳殿、皇太子の御所である雅院(東宮坊)、大内裏中の別宮である梨本院、道場である真言院などがあり、これらの周囲に太政官以下の各省カン がおかれていた。