主題シュダイ科目カモク 都市デザイン史
4-1 近代キンダイの都市デザイン(田園デンエン都市トシからニュータウンへ)
出典シュッテン 建築大ケンチクダイ辞典ジテン ダイハン」、ショウ国社クニシャ、1993
西洋建築セイヨウケンチク図集ズシュウ 三訂版サンテイバン」、日本建築学会編ニホンケンチクガッカイヘン彰国社ショウコクシャ、1981
E.ハワードチョナガレンヤク、「明日アシタ田園デンエン都市トシ」、鹿島カシマ出版会シュッパンカイ、1968
近代キンダイカ modern age
歴史レキシ時代区分ジダイクブンイチ広義コウギには近世キンセイ同義ドウギで、一般イッパンには封建制社会ホウケンセイシャカイのあとをうけた資本主義シホンシュギ社会シャカイについていう。日本史ニホンシでは明治維新メイジイシンから太平洋戦争タイヘイヨウセンソウ終結シュウケツまでとするのが通説ツウセツ
近代化キンダイカ 近代的キンダイテキ状態ジョウタイ移行イコウすること。産業化サンギョウカ資本主義シホンシュギ合理化ゴウリカ民主化ミンシュカなど、捉えるトラエルシ側面ソクメンにより多様タヨウ観点カンテン存在ソンザイする。
近代主義キンダイシュギ modernism
封建制ホウケンセイ反対ハンタイして近代的自我キンダイテキジガ確立カクリツなど近代化キンダイカ追求ツイキュウする立場タチバ哲学テツガク美術ビジュツ文学ブンガクで、伝統主義デントウシュギ対立タイリツして、現代的文化生活ゲンダイテキブンカセイカツ反映ハンエイした主観主義シュカンシュギエキケイコウノ的傾向テキケイコウ総称ソウショウ
近代的土地所有キンダイテキトチショユウ 土地トチ特定トクテイヒト排他的ハイタテキ帰属キゾクしており、そのヒト自由ジユウ意志イシ支配シハイフクすることを保障ホショウする所有形式ショユウケイシキ封建的土地所有ホウケンテキトチショユウとはコトなり、土地トチタイする現実的ゲンジツテキ事実的支配ジジツテキシハイとは関係カンケイなく、抽象的チュウショウテキ観念的カンネンテキミトめうる所有形式ショユウケイシキ
ショクジュウ分離ブンリショクジュウ近接キンセツ 都市トシとは元来ガンライタトえば江戸エド以来イライマチのように、チョウナイテキショクジュウ近接型キンセツガタ都市トシ構造コウゾウであった。しかし近代キンダイハイると、大都市ダイトシおよびその周辺シュウヘンでは、住居地ジュウキョチ勤務先キンムサキからトオハナして分離ブンリし、鉄道テツドウでつなぐような計画的ケイカクテキ住宅地ジュウタクチがつくられていく。それは理想的リソウテキ居住地キョジュウチとして計画ケイカクされたが、次第シダイ通勤ツウキン多大タダイ時間ジカンがかかることが問題視モンダイシされるようになる。そうしたことから、住宅ジュウタク職場ショクバ(企業キギョウ)を近接キンセツ一体的イッタイテキ計画ケイカクされたショクジュウ近接型キンセツガタのニュータウンが建設ケンセツされるようになる(レイ:イギリス)
ハワードの田園都市デンエントシ garden city
大都市ダイトシ工業コウギョウ集積シュウセキ人口ジンコウ集中シュウチュウススみ、都市問題トシモンダイ顕在化ケンザイカした19世紀末セイキスエに、E.ハワードが提案テイアンした計画都市概念ケイカクトシガイネン(『明日アス田園都市』デンエントシカッコ,1899)。都市生活トシセイカツ田園生活デンエンセイカツトモ享受キョウジュできるよう、土地トチ私的所有シテキショユウ制限セイゲン都市トシ変化ヘンカ計画的制御ケイカクテキセイギョ都市規模トシキボ限定ゲンテイなどの主張シュチョウっていた。ハワードの主張シュチョウは1898ネン結成ケッセイされた田園都市協会デンエントシキョウカイがれ、国際的コクサイテキ運動ウンドウ発展ハッテンした。
ハワード,エベネザー Ebenezer Howard,1850〜1928
イギリスの都市計画家トシケイカクイエアト速記者ソッキシャ。しばらくアメリカに滞在タイザイ(1872〜77)、R.W.エマーソンやW.ホイットマンの思想シソウ傾倒ケイトウ後にE.アトニエ。.ベラミのユートピア小説『Looking Backward(1888)』ショウセツカッコ影響エイキョウのもとに、『Tomorrow(1898)』をチョして、田園都市デンエントシ構想コウソウアキらかにした。このショは1902ネンに『Garden Cities of Torrow(1898),チョウ素連訳ソレンヤク明日アス田園都市デンエントシ』として再刊サイカンされ、その都市計画トシケイカクオオきな影響エイキョウアタえた。
レッチワース Letchworth
E.ハワードが設立セツリツした第一ダイイチ田園都市株式会社デンエントシカブシキカイシャにより建設ケンセツされた最初サイショオサイショ田園都市デンエントシ。ロンドンの北方キタホウヤク8ヤク80kmのに1903ネンから建設ケンセツ着手チャクシュされた。田園都市デンエントシ理想リソウ具体化グタイカすべく、工場コウジョウ店舗テンポ農場ノウジョウなどをソナえた自足ジソク自立都市ジリツトシ目指メザした。都市計画トシケイカクはアンウィンとパーカーが担当タントウし、従来ジュウライ幾何学的キカガクテキ形式ケイシキから脱却ダッキャクした斬新ザンシンなものであった。市街地部分シガイチブブン面積メンセキは2020ha、1967ネンジテン時点ジテン人口約ジンコウヤク28,300ニン住宅ジュウタク9,000、170の製造工場セイゾウコウジョウ、213の店舗テンポ建設ケンセツされている。田園都市デンエントシダイゴウとして後世コウセイアタえた影響エイキョウオオきい。
田園郊外デンエンコウガイ garden suburb
イギリスにおける田園都市デンエントシ成功セイコウ当時トウジ世界各国セカイカクコクオオきな影響エイキョウをもたらし、田園都市にデンエントシニスルイするもの、あるいは田園郊外デンエンコウガイともいうべきものが各地カクチ建設ケンセツされた。田園郊外デンエンコウガイ大都市ダイトシ郊外コウガイ位置イチし、十分ジュウブンアなオープンスペースや公共コウキョウ施設シセツソナえているが居住者キョジュウシャ大部分ダイブブンはバスあるいは高速鉄道コウソクテツドウによって母都市ボトシ通勤ツウキンする一種イッシュ郊外住宅地コウガイジュウタクチであって、完全カンゼン自給都市ジキュウトシではない。したがって、ハワードの田園都市デンエントシ影響エイキョウとはいってもその厳密ゲンミツ意味イミでの後継者コウケイシャはイギリス政府セイフ新都市シントシホウモトづいてニュータウンを開発カイハツするまでアラワれなかったといってよい。イギリスにおける田園デンエン郊外コウガイとしては、ロンドン郊外コウガイのハムステッドが有名ユウメイである。
ハムステッド田園デンエン郊外コウガイ Hampstead Garden Suburb
ロンドン郊外コウガイ建設されたケンセツサレタt田園郊外デンエンコウガイ。R.アンウィンとカレ義弟B.ギテイB。.パーカーが1907ネン設計セッケイしたもので、住宅ジュウタクタイプおよび密度ミツド多様性タヨウセイ景観構成等ケイカンコウセイナドがよくカンガえられており、当時トウジモットスグれた設計セッケイヒトつとされる。
アンウィン,レイモンド Raymond Unwin,1863〜1940
イギリスの建築家ケンチクカ都市計画家トシケイカクカ。アメニティの必要性ヒツヨウセイ主張シュチョウした住宅配置ジュウタクハイチ環境カンキョウデザインの分野ブンヤ業績ギョウセキノコした。義弟のB.ギテイノB。.パーカーとんでヴィレッジ・グリーン(1899年頃ネンコロ)、レッチワース(1904)、ハムステッド(1907)などの設計セッケイのほか、著書チョショに『住宅建築技法ジュウタクケンチクギホウ』などがある。
パーカー,ベリー Berry Parker,1865-1949
イギリスの建築家ケンチクカ都市トシ計画ケイカク。R.アンウィンの義弟ギテイ。アンウィンと共同キョウドウった住宅地ジュウタクチ計画ケイカク作品サクヒンオオく、アンウィンによれば、パーカーは芸術家ゲイジュツカ役割ヤクワリを、アンウィンは実務家ジツムカ役割ヤクワリ分担ブンタンしたという。著者チョシャとして、『The Art of Building a Home』(アンウィンと共著キョウチョ)などがある。
田園デンエン調布チョウフ 田園デンエン都市トシ株式カブシキ会社カイシャ田園デンエン都市トシ経営ケイエイ専業センギョウとする土地トチ建物タテモノ会社カイシャである。創業者ソウギョウシャ渋沢シブサワ栄一エイイチ大正タイショウネン(1918)からシモジンハラグンアラアシダイ岡山オカヤマ奥沢オクサワ田園調布デンエンチョウフの4ヶソンヤク48万坪マンツボ買収バイシュウし、大正タイショウ11ネン(1922)からアラソクトモ田園デンエン調布チョウフ10マン5,000ツボ分譲ブンジョウした。田園デンエン調布チョウフ高台タカダイ位置イチし、街路ガイロ放射ホウシャジョウ展開テンカイする構成コウセイをとり、商店街ショウテンガイ住宅ジュウタク分離ブンリしてかれている。また駅前エキマエ広場ヒロバショウ公園コウエン銀杏ギンナン並木ナミキ街路樹ガイロジュ用意ヨウイされ、ロマンチックな住宅ジュウタク美貌ビボウカザるランドマークとなったのが矢部ヤベ金太郎キンタロウ設計セッケイによる駅舎エキシャである。マンサール屋根ヤネせた駅舎エキシャ現存ゲンゾンしないが、田園デンエン調布チョウフイマ渋沢シブサワ栄一エイイチへの最晩年の夢をかけた住宅地として親しまれている。
渋沢シブサワ栄一エイイチ  1840-1931
明治メイジ大正タイショウツウじて、クニ金融キンユウおよび商工界で指導的役割を果たして財界人。都市計画の上では、田園調布の開発で知られている。彼は、E・ハワードの田園都市の思想から影響を受け、当時興隆しつつあった中産階層のための住宅地開発を郊外に伸びる私鉄沿線上に行った。1933(大正12)年に田園調布株式会社を設立し、当時の調布村で、鉄道延伸、新駅設置に合わせて住宅理知の開発を行った。駅を中心として放射状と環状の道路で構成されたこの住宅地はハワードの田園都市モデルパターンを擬している。しかし自立都市の発想はなく、当時東京西部の私鉄沿線に開発されていった他の住宅地と同様、東京へ通勤する郊外住宅地にとどまった。
ニュータウン newtown
大都市ダイトシ膨張ボウチョウ対策タイサクとして既存キゾン市街地シガイチハナれてアタラしく計画ケイカクテキ建設ケンセツされた。ニュータウンの建設ケンセツ田園デンエン都市トシ理論リロン衛星エイセイ都市トシ理論リロン影響エイキョウけ、トクにイギリスにおいては発展ハッテンした。ロンドン郊外コウガイに、1946ネン制定セイテイされたニュータウンホウ(New Towns Act)によるハーロー、スティーヴネイジなど8シンがある。このようなニュータウンは欧米オウベイ諸国ショコク日本ニホンでも大都市ダイトシ近郊キンコウサカんに建設ケンセツされてきているが、クニによって、その成立セイリツ基盤キバン内容ナイヨウ様々サマザマである。「新都市シントシ」ともいう。
ニュータウン運動ウンドウ new town movement
ダイ一次イチジ世界セカイ大戦の終わりごろ、ハワード、オズボーン、テーラーたちが中心になって、真の田園都市原理の再度提唱し、戦後の再建築として政府の支援のもとに100ヶ所のニュータウンを建設しようと働きかけた運動のこと。田園都市協会を母体として取り込まれたが、この時期における次の戦争までの間の住宅建設の勢いの根強さ、および世間の風潮によって再びそられてしまった。しかし、この運動はダイ二次ニジ世界セカイ大戦タイセンのニュータウンホウモトづくニュータウン建設ケンセツ結実ケツジツしたとえる。
ニュータウンホウ New Town Act
ダイ二次ニジ世界セカイ大戦タイセンのイギリスにおいて、膨張ボウチョウする大都市ダイトシからの人口ジンコウ職場ショクバ分散ブンサンハカるため、ニュータウンの建設ケンセツ目的モクテキをして1946ネン制定セイテイされた法律ホウリツ。この法律ホウリツにより、ニュータウンの建設ケンセツ処分ショブン都市トシ経営ケイエイイタるまでの広範コウハン権限ケンゲンアタえられた開発カイハツ公社コウシャがニュータウンごとに設置セッチされ、ニュータウンの建設ケンセツたった。
ハーロウ Harlow
ロンドンのキタヒガシ23マイルに位置イチする敷地シキチ面積メンセキ2450haのニュータウン。P.アバクロンビーがダイロンドン計画ケイカク提案テイアンした8衛星エイセイ都市トシイチ。1947ネンF・ギバードによってマスタープランが作成サクセイされた。近隣キンリンジュウセイとラドバーンカタアユシャ分離ブンリホネとしたもので、イギリスのニュータウングンのうちキュウタイプの典型テンケイである。
衛星エイセイ都市トシ satellite city
惑星ワクセイタイする衛星エイセイのように、大都市ダイトシハハ都市トシとして周辺シュウヘン距離キョリヘダてて(都心から30~50km)存在ソンザイする都市トシ形態的ケイタイテキには独立性ドクリツセイタモつが、機能キノウについては一部イチブハハ依存イゾンしたり、ハハ機能キノウ分担ブンタンしたりする関係カンケイにあるものをいう。このは1915ネンアメリカのG.Rテイラーの著書チョショ衛星エイセイ都市トシ』で最初サイショモチいられた。すでにE・ハワードの『田園デンエン都市トシ』(1898)にも、膨張ボウチョウタイし、連携レンケイによってこれをめようとするカンガえが芽生メバえていたように、計画的ケイカクテキにはイギリスで提唱テイショウされ、1924ネンC.R. バードムが『衛星エイセイ都市トシ建設ケンセツ』を著し、この概念を一般化した。
ダイロンドン計画ケイカク Greater London Plan
ロンドンの拡大カクダイ対処タイショするため、地方チホウケイカクショウ要請ヨウセイにより1944ネンP.アバクロンビーらが作成サクセイした計画ケイカク半径ハンケイヤク30マイルを計画ケイカク区域クイキにとりヨッつの環帯に区分して構想している。内部市街地は約103万人の要疎開地区であり、次の郊外地帯は人口増を認めない開発の均衡をとる地区であり、その外側は開発を遮断するための幅約10マイルの緑地帯であった。更に周辺地帯が設けられ、8個の新都市などによって疎開人口の受入れが図られていた。1961年に計画区域の拡張が行われ、1969年には大ロンドン開発計画が作成された。