主題シュダイ科目カモク 都市デザイン史
3-3 近世キンセイの都市デザイン(日本ニホン
出典シュッテン 建築大ケンチクダイ辞典ジテン ダイハン」、ショウ国社クニシャ、1993
日本ニホン建築セイヨウケンチク図集ズシュウ 三訂版サンテイバン」、日本建築学会編ニホンケンチクガッカイヘン彰国社ショウコクシャ、1981
広辞苑コウジエン 第四版ダイヨンハン」、新村ニイムライズルイヘン岩波書店イワナミショテン、1993
大名ダイミョウ 武士ブシ格式カクシキウエカタ。フ小名ショウミョウ。@平安時代ヘイアンジダイ末期マッキオオくの名田ミョウデンユウするもののショウ。A鎌倉カマクラ時代ジダイオオくの土地トチ郎党ロウトウとをユウする武士ブシカシラをさすショウ。B江戸時代エドジダイ一万石イチマンゴク以上イジョウ封土フウドのある武家ブケ諸候ショコウ
公権力コウケンリョク public right
個人コジン国家コッカとの支配シハイ関係カンケイにおいてソンする権利ケンリ。これをけて国家コッカ個人コジンタイしてユウする権利ケンリ、すなわち国家コッカ公権コウケンと、個人コジン国家コッカタイしてユウする権利ケンリ、すなわち個人コジン公権コウケンとのフタつとする。国家コッカ公権コウケンとは納税ノウゼイ義務ギム履行リコウさせる権利ケンリのようなものをいい、個人コジン公権コウケンとは選挙センキョケン選挙センキョケンのようなものをいう。
城下町ジョウカマチ 大名ダイミョウ小名ショウミョウ居城キョジョウである城郭ジョウカク中心チュウシンにして成立セイリツした封建ホウケン都市トシ萌芽ホウガテキなものは中世チュウセイ末期マッキにもられるが、都市トシとしての形態ケイタイトトノえて完成カンセイしたのは、城郭ジョウカク平地ヘイチブキズかれ、経済的ケイザイテキにも地域チイキ中心チュウシン支配地シハイチとしての性格セイカク持つモツヨウようになった桃山モモヤマ時代ジダイからである。具体的グタイテキには、一国イッコク一城イチジョウレイ(1615)や兵農ヘイノウ分離ブンリによる身分ミブン階層カイソウ固定コテイがその発達ハッタツ要因ヨウインとしてげられる。城下町ジョウカマチ構成コウセイ天守閣テンシュカクフク城郭ジョウカク中心チュウシンに、そのマワりに石高コクダカオウじて武家ブケ屋敷ヤシキき、その外側ソトガワには往還オウカン沿って町人地チョウニンチヒロがり、その外側ソトガワには拠点キョテンテキ足軽アシガル居住地キョジュウチ配置ハイチされるという具合グアイ秩序化チツジョカされていた。寺院は戦略的な意図もあって要地にまとめて配された。
一般的イッパンテキ城郭ジョウカクあるいは武家地ブケチマワりはホリカコまれ、町人地チョウニンチとの制限セイゲンされていた。ホリは、まれに姫路ヒメジ彦根ヒコネのように町人地チョウニンチをもフクめてカコんでいる。街路ガイロ基本的キホンテキには格子状コウシジョウのパターンがかれたが、要所ヨウショ要所ヨウショ丁字チョウジ交差コウサカギカタチフクロ小路コウジなどをモウけ、遠見トオミ遮断シャダンハカられていた。現在ゲンザイ日本ニホン主要シュヨウ都市トシは、ほとんどがこの城下町ジョウカマチから発展ハッテンしたものであり、現在ゲンザイもなお当時トウジ城下町ジョウカマチとしての空間クウカン構成コウセイ残存ザンゾンさせ、あるいはいでいるものがオオい。
外町ソトマチ 城下町ジョウカマチにおいて町人チョウニン居住キョジュウ地域チイキ武士ブシ居住地域キョジュウチイキを「ウチマチ」といったことにタイする
内町ウチマチ @シュとして東北トウホクショハンハン城下町ジョウカマチにおいて武士ブシ居住キョジュウ地域チイキ
A江戸時代エドジダイ上方カミカタ地方チホウにおいて官許カンキョ遊郭ユウカク茶屋チャヤマチキョウ祇園ギオン白川シラカワ茶屋チャヤマチがこれに当たるアタル。.
ソウ曲輪クルワソウクルワ,総、ソウカマ 近世キンセイ城下町ジョウカマチにおいて、曲輪クルワ(くるわ)が幾重イクジュウにもめぐらされている場合バアイモット外側ソトガワにある曲輪クルワ町屋マチヤフク幹線カンセン道路ドウロ貫通カンツウしている場合バアイオオい。「そうかわ」「そうぐるわ」ともいう。
町人チョウニン マチヒト商売人ショウバイニン。あきんど。
横町ヨコマチ オモテドオりからヨコにはいった町筋マチスジ。よこちょう。
大手オオテ @城郭ジョウカク正面ショウメン入口イリグチ用語ヨウゴとして源平時代ゲンペイジダイ(12世紀セイキ後半コウハン)からる。フカラ
A城郭ジョウカク正面ショウメン大通オオドオり。「大手筋オオテスジ」のリャク
ヤグラモン やぐらもん 近世キンセイにおいて城郭ジョウカクマスカタチ、または武家ブケ台所ダイドコロ方向ホウコウ入口イリグチモウけてあるワタヤグラ形式ケイシキモン入口イリグチ両側リョウガワ石垣イシガキモウけ、そのウエカワラき、ヅクりのヤグラワタし、そのシタモンヒラいたもの。入母屋イリモヤヅクり、ホンカワラきを原則ゲンソクとする。「ワタ櫓門ヤグラモン」のリャクカンガえられる。二条ニジョウシロマルヒガシ大手門オオテモンキタ大手門オオテモン姫路城ヒメジジョウヒシモンなど各地カクチシロオオ現存ゲンゾンする。
枡形マスガタ 城郭ジョウカク宿場町シュクバマチ出入口デイリグチ形式ケイシキイチ正方形セイホウケイイシルイまたは土手ドテカコカベモウけ、カベフタつの出入口デイリグチモウけたもの。城郭ジョウカクでは、ソトからの第一ダイイチ出入口デイリグチ高麗門コウライモンけ、トラクチるときヒダリがってるのを「ヒダリマエ」とショウしてリョウとし、「ミギマエ」は不可フカとする。そこをカギミギがった位置イチヤグラモンモウける。トクに5アイダ×8アイダのものを「ハチ枡形マスガタ」または「五八ゴハチ」とショウする形式ケイシキによって、ウチ枡形マスガタソト枡形マスガタハン枡形マスガタヨコ枡形マスガタツボ枡形マスガタハシ枡形マスガタなどがある。宿場町シュクバマチではイシルイまたは土手ドテ街道カイドウ両側リョウガワからタガチガいにすだけといった簡単カンタンなものもある。
在地ザイチ @んでいる土地トチ。Aいなかの土地トチ
在郷町ザイゴウマチ在方ザイカタマチ 江戸時代エドジダイ中期チュウキ以降イコウ発生ハッセイした農村部ノウソンブにおける商品ショウヒン生産セイサン発展ハッテントモナって発生ハッセイしたショウ都市トシ集落シュウラクのこと。「ゴウマチ」「町分マチブン」「町場マチバ」「ザイマチ」「町村チョウソン」「町屋マチヤ」ともいう。ホウセイテキセイドテキには在方ザイカタ農村ノウソン)としてグン奉行ブギョウ支配シハイけ、ショウ取引上トリヒキジョウ制限セイゲンオオかったが、次第シダイ町方マチカタジュンじてアツカわれ、制限セイゲン緩和カンワされ、ショウ取引トリヒキ中心チュウシンになった。陣屋ジンヤ宿シュクエキショウショウミナト門前町モンゼンマチ定期テイキイチなどがフクまれ、ショウ工業者コウギョウシャソトジュン農民ノウミンフクみ、都市的トシテキ性格セイカク農村的ノウソンテキ性格セイカクをあわせてつ。これらのうちには、中世チュウセイショウ城下町ジョウカマチ港町ミナトマチ宿場町シュクバマチとして成立セイリツしたものもオオい。戸数コスウ200〜1000ほどの規模キボで、現在ゲンザイクニショウ都市トシオオくは在郷町ザイゴウマチ成長セイチョウしたものである。
港町ミナトマチ港湾コウワン都市トシ harbour city
港湾コウワン中心チュウシンとして成立セイリツ発達ハッタツした都市トシ海岸カイガン湖岸コガンカワキシなどの水際ミズギワセンのうち、航路コウロ要衝ヨウショウアタたり、船舶センパク安全アンゼン停泊テイハク可能カノウ場所バショで、かつ後背値コウハイチとの連絡レンラクにもメグまれた場所バショ成立セイリツ発達ハッタツしてきた。しかしその条件ジョウケン航海コウカイ技術ギジュツ発達ハッタツ社会的シャカイテキ産業的サンギョウテキ背景ハイケイ変化ヘンカイチジルしく左右サユウされるため、港湾コウワン都市トシ盛衰セイスイ非常ヒジョウハゲしい。
日本ニホンでは、港湾コウワン都市トシミンとの貿易ボウエキ荘園ショウエン年貢ネング積出ツミダシしと関連カンレン中世チュウセイ末期マッキから発達ハッタツする。そのオモモノ博多ハカタサカイ尾道オノミチ大津オオツなどである。これら中世チュウセイスエ港町ミナトマチは、そのトミからにより独立ドクリツした自由ジユウ都市トシテキ性格セイカクツヨめていったが、近世キンセイ初期ショキ全国ゼンコク統一トウイツ過程カテイ弱体化ジャクタイカした。江戸時代エドジダイになると年貢米ネングマイ運搬ウンパンカク地方チホウ産業サンギョウ取引トリヒキ活発カッパツトモに、港町ミナトマチはいっそうの発展ハッテンげ、長崎ナガサキ大坂オオサカなどがアラたに登場トウジョウする。近代キンダイになってからは国際的コクサイテキ交易コウエキ発達ハッタツトモ江戸エド横浜ヨコハマなどの大港湾ダイコウワン都市トシ成立セイリツする。
港湾都市の景観的な特性は、商業港、工業港、漁港、軍港など、その港湾の機能的な性格を有する海港、河港など、その立地条件、更にドックやピアあるいは後背値を持つ岸壁など埠頭の形式によっても異なるが、基本的に水面につながった都市として共通のものを持っている。近代以前の場合は一般に「港町」という。
宿場町シュクバマチ 荘園ショウエンミヤコムス交通コウツウ主体シュタイであった中世チュウセイ以前イゼン道路ドウロおよび道路網ドウロモウ管理カンリへの関心カンシン産業サンギョウ交通コウツウ発展ハッテン政治セイジおよび軍事グンジ交通コウツウ整備セイビ必要性ヒツヨウセイタカまりにより変化ヘンカし、次第シダイ東国トウゴク中心チュウシン伝馬制デンバセイ発達ハッタツする。宿シュクとその系統ケイトウ全国的ゼンコクテキ展開テンカイする意識イシキ発生ハッセイする。貨幣カヘイ経済ケイザイ新党シントウ全国的ゼンコクテキ経済ケイザイ交流コウリュウ活発カッパツになるにつれ、街道カイドウ沿いの宿場町シュクバマチ発達ハッタツられた。宿場シュクバはおよそ1〜3ごとにモウけられ、道路ドウロ一般イッパンに2〜4アイダ防火ボウカおよび人馬ジンバへの給水キュウスイのため道路ドウロ中央チュウオウあるいは両側リョウガワ流水リュウスイをひいている。宿場シュクバ主要シュヨウ施設シセツ公用コウヨウ人馬ジンバといった統治者トウチシャ関連カンレンのものと一般イッパン旅行者リョコウシャのものとにオオきくけられている。宅地タクチりは奥行オクユキ一定イッテイとし、分限ブンゲンオウ間口マグチてている場合バアイオオい。
宿場町シュクバマチ一般イッパン小規格ショウキカクでグルーピングやゾーニングはオコナわれず、建物タテモノ格式カクシキにより身分的ミブンテキ区別クベツオコナわれた。都市トシ存在ソンザイテンとしてでなくネットワークとしてとらえている。全国ゼンコク統治トウチ主題シュダイとした徳川トクガワ幕府バクフは、公認コウニン宿駅シュクエキ配置ハイチし、参勤交代サンキンコウタイという大名ダイミョウ管理カンリホウ情報ジョウホウ収集シュウシュウ手法シュホウとしてのエキデンセイ実現ジツゲンさせた。
ヤマあて @ツウケイケイカンセン正面ショウメン山岳サンガクがくるように街路ガイロ軸線ジクセン設定セッテイする、日本ニホン古来コライ街路ガイロ計画ケイカク手法シュホウヤマがランドマークであり信仰シンコウ対象タイショウである日本ニホンでは頻用ヒンヨウされた。焦点ショウテン人工ジンコウブツ西欧セイオウのヴィスタとはコトなる設計セッケイ思想シソウがその根底コンテイ存在ソンザイする。江戸エド日本ニホンハシでは富士山フジサンヤマあてに使ツカい、街路ガイロ一体イッタイとなった富士フジ印象インショウアザやかで、ために「駿河スルガマチ」のこった。
A漁業ギョギョウあるいは沿岸エンガン航路コウロで、自己ジコ位置イチるためにオコナわれた視認シニンホウイチ沿岸エンガンヤマ前山マエヤマ)とオクヤマ視覚的シカクテキ位置イチ関係カンケイにより判断ハンダンするのが一般的イッパンテキであった。そのヤマカサなり具合グアイアラワ言葉コトバとして「ケヌキぬき」などという言葉コトバモチいられた。
辻子ズシ二階ニカイ厨子ズシ二階ニカイ →ずし(辻子ズシ
民家ミンカ屋根裏ヤネウラ草葺クサブき、板葺イタブき、瓦葺カワラブきのいかんにかかわらずモチいられ、マド場合バアイたない場合バアイもある。ユカタケ簀かワタし、ムシロ(むしろ)をいただけのものまであり、物置モノオキカイコシツ使用人シヨウニン寝間ネマなどにモチいられた。地方チホウにより「つし」「じす」「ちし」「つじ」「つち」「ずし二階」「つしこ」「ぬきあげ二階ニカイ」などともショウする。
町家マチイエ町屋マチヤ @平安ヘイアン鎌倉カマクラ時代ジダイにおいては平安京ヘイアンキョウ東西市トウザイイチ以外イガイトク東西トウザイドオりの町筋マチスジにおいてジュウタクナイしてモノっている建物タテモノ総称ソウショウ
A室町ムロマチ時代ジダイ以後イゴにおいてはマチにあるショウ職人ショクニン総称ソウショウ。その平面ヘイメン形式ケイシキ農家ノウカから分出ブンシュツされたもので、トオ土間ドマ形式ケイシキ普通フツウマエ土間ドマ形式ケイシキもある。入口イリグチのとりカタには妻入ツマイり、平入ヒライリがあり、内開ウチビラきのジクフルく、ノチ形式ケイシキとなり、また入口イリグチワク冠木カブキ(かぶき)形式ケイシキ構造コウゾウフルく、ノチに楣(まぐさ)形式ケイシキとなる。屋根ヤネ材料ザイリョウクサイタからホンカワラサンカワラへとわり、カイタカ平家ヒラヤから厨子ズシ二階ニカイ本式ホンシキ二階ニカイつものへと発展ハッテンしていく。建物タテモノ両側リョウガワメンめる構造コウゾウ出現シュツゲンは、桃山モモヤマ時代ジダイカンガえられる。奈良県ナラケン栗山クリヤマイエ住宅ジュウタク(1608)や今西イマニシイエ住宅ジュウタク(1650)が現存ゲンゾンのものとしてはフルい。